グラーツ包囲戦

グラーツ包囲戦
戦争七年戦争
年月日1760年6月7日 - 7月26日
場所シュレージエングラーツ(英語版)
結果:オーストリアの勝利
交戦勢力
神聖ローマ帝国の旗 ハプスブルク帝国 プロイセン王国 プロイセン王国
指導者・指揮官
神聖ローマ帝国の旗 エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン プロイセン王国 バルトロメウス・ドー
戦力
3,200
損害
死傷者214 死傷者700
捕虜2,500

ボヘミア、モラヴィア

ヴェストファーレン、ヘッセン

ザクセン

ブランデンブルク

シュレージエン

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グラーツ包囲戦(グラーツほういせん、英語: Siege of Glatz)は、七年戦争中の1760年6月から7月にかけて、エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン率いるオーストリア軍がプロイセンシュレージエングラーツ(英語版)を包囲、占領した戦闘。

経過

ラウドンは6月6日にグラーツを包囲したが、大砲がモラヴィアオルミュッツから運ばれてくるまで待つ必要があった。その間、ハインリヒ・アウグスト・ドゥ・ラ・モット・フーケ(英語版)率いるプロイセン軍が接近中という情報が入り、ラウドンは軍を差し向けて6月23日のランデスフートの戦いでフーケを降伏させた[1]

フーケに勝つとラウドンはグラーツ包囲に専念、大砲が到着したことで包囲戦は7月20日に開始された。オーストリア軍は溝を掘り、城壁を砲撃して守備を弱らせると、要塞を強襲して城門を開かせた[2]

その後

1760年の数々の戦闘の後、オーストリアはグラーツしか占領できず、それ以外の領土は前年と全く同じであった[3][4]

プロイセン軍の指揮官バルトロメウス・ドーは捕虜にされ、戦後に釈放されるもプロイセン王フリードリヒ2世に軍法会議にかけられて処刑された[5]

脚注

  1. ^ Szabo, pp. 279-80.
  2. ^ Szabo, p. 283.
  3. ^ Szabo, p. 324.
  4. ^ Dull, p. 183.
  5. ^ Szabo, p. 284.

参考文献

  • Szabo, Franz A.J. (2008). The Seven Years War in Europe, 1757-1763. Pearson.
  • Dull, Jonathan R. (2005). The French Navy and the Seven Years' War. University of Nebraska Press. ISBN 0-8032-1731-5.

座標: 北緯50度26分00秒 東経16度39分00秒 / 北緯50.433333度 東経16.650000度 / 50.433333; 16.650000