ジギスムント (神聖ローマ皇帝)

ジギスムント
Sigismund
神聖ローマ皇帝
アルブレヒト・デューラーによる16世紀の作)
在位 1387年 - 1437年(ハンガリー王)
1410年 - 1437年(ローマ王)
1419年 - 1437年(ボヘミア王)
戴冠式 1387年3月31日(ハンガリー王)
1414年11月8日(ローマ王)
1420年7月28日(ボヘミア王)
1433年5月31日(神聖ローマ皇帝)
別号 ハンガリー国王
ボヘミア国王
ローマ王
クロアチア王
ブランデンブルク選帝侯
ルクセンブルク公

出生 (1368-02-15) 1368年2月15日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
帝国自由都市ニュルンベルク
死去 (1437-12-09) 1437年12月9日(69歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ボヘミア王国モラヴィア辺境伯領)、ズナイム
埋葬 ハンガリー王国ナジヴァーラド
配偶者 ハンガリー女王マーリア
  バルバラ・ツェリスカ
子女 エリーザベト
家名 ルクセンブルク家
王朝 ルクセンブルク朝
父親 カール4世
母親 エリーザベト・フォン・ポンメルン
テンプレートを表示

ジギスムント(Sigismund, 1368年2月15日 - 1437年12月9日[1][2])は、ルドルフ1世から続く9代目の非世襲ローマ王(ドイツ王、在位:1410年 - 1437年[注釈 1]ルクセンブルク家として4人目で最後。元はハンガリー王ジグモンド(Zsigmond、在位:1387年[2] - 1437年)、さらに兄ヴェンツェルの後を継いでボヘミア王ジクムント(Zikmund、在位:1419年 - 1437年)。一時期はルクセンブルク公(在位:1378年 - 1388年)、ブランデンブルク選帝侯(在位:1378年[2] - 1388年、1411年 - 1415年)でもあった。晩年に神聖ローマ皇帝としても戴冠した。(在位:1433年 - 1437年)[注釈 2]。フランス名はシジスモン(Sigismond)。

父は神聖ローマ皇帝カール4世、母は4番目の妃で[2]ポーランド王カジミェシュ3世の孫娘エリーザベト[3]。ニュルンベルクで生まれた[2][4]。ローマ王ヴェンツェルの異母弟。在位中の1415年、自らが兼ねるブランデンブルク選帝侯をホーエンツォレルン家ニュルンベルク城伯フリードリヒ6世に譲渡した[5]。半世紀にわたりハンガリー王として在位し、治世後半には神聖ローマ皇帝およびボヘミア王も兼ねたが、その死によって皇帝家・王家としてのルクセンブルク家は事実上断絶した。

生涯

幼少期

ジギスムントは1368年2月15日、ニュルンベルク神聖ローマ皇帝カール4世とその4番目の妃エリーザベトの間に生まれた[2]。異母兄ヴェンツェルと同様ドイツ語チェコ語のバイリンガルとして育ち、後にフランス語ラテン語ハンガリー語イタリア語スラヴ語(おそらくポーランド語)を学んだ[2]。ヴェンツェルが1378年にボヘミア王位を継ぐと、次男であるジギスムントは兄からブランデンブルク辺境伯を継いだ[2]。1379年9月にはカール4世とハンガリー王ポーランド王ラヨシュ1世の間で、ラヨシュ1世の娘マーリアとジギスムントの結婚が合意されたが、マーリアの母エルジェーベトの反対もあって中々実現されなかった[2]

ハンガリー王位継承争い

女王マーリア

アンジュー家出身のラヨシュ1世は東欧に「大アンジュー帝国」とも呼ぶべき一大勢力を築いたが、男子に恵まれず2人の娘を残して1382年に没した。ラヨシュ1世は遺言で、次女マーリアを、ルクセンブルク家出身で神聖ローマ皇帝兼ボヘミア王カール4世の息子の一人であるジギスムントと結婚させ、両王国の共同統治者とするものとしていた。これに対してポーランド貴族(シュラフタ)は、マーリアの妹で三女のヘドヴィグ(ヤドヴィガ)を女王に推戴して同君連合を解消する。ルクセンブルク家はポーランドの宿敵であるドイツ騎士団の支援者だったからである。その後ヤドヴィガが1386年にリトアニア大公ヴワディスワフ2世と結婚し[2]、ハンガリーとの同君連合の道は完全に断たれた。

ハンガリーでも王位継承を巡って混乱が起きていた。始めにラヨシュ1世の死後ハンガリー王位はマーリアが継承し、彼女の母エリザベタはマーリアとフランスのオルレアン公ルイ1世との婚姻を企てたが、これに対して反乱が起こった。ジギスムントはこれに乗じて、ブランデンブルク辺境伯領を担保にしてハンガリーへと派兵して反乱を鎮圧し[6]、エリザベタの反対を押し切って1385年9月末、オーフェンでマーリアと結婚した[7]。しかしこの結婚式に賛成したハンガリー貴族はラツクフィ家などごくわずかで、大部分の大貴族(マグナート、代表的なのがハンガリー南部を支配するガライ家とホルヴァティ家)は反対していた。特にホルヴァティ家は、アンジュー家の同族であるナポリ王カルロ3世に王位に就くよう要請し、カルロもこれに応える形で軍を率いてハンガリーに侵攻し、ハンガリー王カーロイ2世として即位する。カーロイ2世の簒奪に対し、ジギスムント側に寝返った副王ガライ・ミクローシュとマーリアの母エルジェーベトは共闘して1386年2月7日に[8]カーロイ2世を殺害した。ホルヴァティ家は新たにカーロイ2世の遺児、ナポリ王ラディズラーオを新たな王に立てようとし、さらには和平に赴いたマーリアの一行を襲った。結果、ガライは殺され、エルジェーベトは獄死し、マーリアは幽閉された。

後にガライ家とホルヴァティ家は和解し、マーリアも釈放されたが、その代償としてジギスムントは大貴族と同盟して統治する義務を課せられ、これが破られた場合に大貴族が武力を行使することさえ認めさせられた(公式的同盟)。しかも、内戦中にハーリチをポーランドに奪取された。このような犠牲を払いながらも、1387年3月31日に[8]ジギスムントも晴れてハンガリー王として即位した[9][10]。ただし、ナポリ王家との抗争は後々まで尾を引くことになる。

1388年、派兵の担保としていたブランデンブルクはヨープストへと渡された[8]

ニコポリス十字軍

ニコポリスの戦い

ハンガリー王になったジギスムントの課題は、バルカン半島で膨張著しいオスマン帝国への対策であった。オスマン帝国のハンガリーへの侵入はラヨシュ1世の頃から始まっていたが(ラヨシュは1375年にオスマン軍を撃破していた)、1389年に即位したバヤズィト1世の下で勢いを増していた[8]。オスマン帝国の侵攻に対し、ジギスムントは国内外に訴えて、ローマ教皇ボニファティウス9世も十字軍勅書を出すことで後援した。この間、マーリアの死という悲運に見舞われたが(1395年[2])、イングランドスコットランドフランス神聖ローマ帝国諸侯、フランドルイベリア、ポーランド、ボヘミアワラキアなどから次々と将兵が集まった。

対オスマン戦を熟知しているジギスムントはブダにオスマン軍を引きつけて消耗させる案を示したが、血気に逸るブルゴーニュ公ジャン(無怖公)がエルサレム解放の大義を掲げるのに押され、積極的な攻撃策を採ることになった。こうして10万を超える軍勢が出撃したが、カトリックを奉じる西欧騎士と正教を奉じるバルカン戦士との確執、旧態依然の騎士突撃戦法が仇となり、1396年ニコポリスの戦いでバヤズィト1世に大敗北を喫した。無怖公は捕虜となり、ジギスムントは辛くも逃げ延びた。その後、バヤズィト1世が1402年アンカラの戦いティムールに敗北したことで、ヨーロッパはしばらくの間オスマンの脅威から解放されることになる。

ハンガリー国内改革

ニコポリスでの大敗によってジギスムントの威信は地に堕ち、ジギスムントに対する不満が高まった[11]。ハンガリーに帰国したジギスムントは、ニコポリス十字軍の敗因を国内の旧弊にあるとみなし、改革を行った。改革の最大の課題は大貴族への対策である。既にラヨシュ1世の時代に大貴族は勢力を増し、ジギスムントの王領・王城の半数を蚕食するなど、その勢いはとどまることがなかった。しかもニコポリスでの敗北を機に、大貴族の一人ラツクフィ・イシュトヴァーンはジギスムントに代えてラディズラーオを王位に就けようと画策していた。陰謀は寸前で阻止されたが、大貴族の勢力は侮り難いものになっていた。

そこでジギスムントは大貴族に対抗するため、国内外の有能な人物を多数登用して新貴族を育成していった。この政策は後に効果を現するが、大貴族の反発に遭い、ジギスムントは1401年ブダ城に監禁された。その後、信奉者によってジギスムントは救出され、謀反者たちに寛大な処置を取ることで人望を獲得していった。翌1402年、ジギスムントは後継者としてハプスブルク家オーストリア公アルブレヒト4世を指名したが、大貴族の一部(特にアンジュー派貴族)が反乱を起こし、またもラディズラーオを推戴しようとした。反乱を鎮めたジギスムントはここでも寛容を示し、大貴族を掌握することに成功した。

1405年ごろ(1408年とも[11])、ジギスムントはツェリェ伯ヘルマン2世の娘バルバラ・ツェリスカと再婚した[8][12]。ヘルマン2世はマーリアとは共に母方の従兄妹であり、アールパード朝のハンガリー王イシュトヴァーン5世を始め、中東欧の多くの名門貴族の血を引いており、この結婚でジギスムントの王位の正統性の補強が期待された。ハンガリーとイタリアを結ぶ重要な拠点であるツェリェ地方に勢力基盤を築くことができるようにもなり、これにより国内の不満は和らいだ[13]。しかもこの結婚の結果、ツェリェ家が統治していたアドリア海沿岸の要所スロヴェニアを獲得した。1409年、ジギスムントとバルバラの間に一人娘であるエルジェーベト(エリーザベト)が生まれた[8]

ジギスムントはバルバラや自分に忠誠を誓う大貴族とともに、1408年ドラゴン騎士団を創設する[8]。これは対オスマン戦に向けて創設したもので、当初は24人の名士からなっていたが、後に国外の王侯貴族も加わった。その中の一人がワラキア公ヴラド2世であり、騎士団にちなんでドラゴン(ドラクル)公と呼ばれた。ヴラド2世の息子がドラキュラ伯爵のモデルとなったヴラド・ツェペシュであるが、ドラキュラは元来「ドラクルの子」といった意味であった。

ジギスムントが大貴族と共に勢力削減の対象にしたのが高位聖職者である。ラディズラーオ擁立の陰謀には高位聖職者も参加し、さらにはローマ教皇も支持していたからであった。1404年にジギスムントは、教皇令は国王の同意抜きでは公布することができないという勅令(国王同意権)で、教皇の高位聖職者の叙任権を剥奪した。そして1417年に、ハンガリー王が司教および大司教を任命できる権利を教皇から承認された。

ジギスムントは大貴族・高位聖職者を封じ込めるため、国王顧問会議に彼らと共に加わる者として「特別顧問官」を設置し、官僚を国政に参与させた。また、都市に特権を与えるなどして強化も図った。

皇帝位の獲得

ジギスムント(アルブレヒト・デューラーによる16世紀の作)
神聖ローマ皇帝、ボヘミア王、ハンガリー王、ルクセンブルク公など5つの紋章が描かれている。

1410年、ローマ王ループレヒトが死去した。そのため、ジギスムントは帝国諸侯からローマ王に選出され、即位することになった[14]。この時、同族の従兄であるモラヴィア辺境伯ヨープストが共同統治王に立って争ったが、翌1411年にヨープストが死去したため、単独のローマ王となった[14][15]。ジギスムントは、ローマ教皇を保護することで皇帝権力の強化を目指した。この頃、ローマ教会は複雑な対立から分裂していたが(教会大分裂)、ジギスムントは1414年コンスタンツ公会議を開催して、ローマ教会の再統一を果たした[8][16]。確かにこれによって神聖ローマ帝国君主としての権威は一時的に強化された。一方でハンガリー統治は疎かになり、ヴェネツィア共和国1411年ダルマチア奪還を目指して戦争を起こし、ジギスムントが1420年にダルマチアを割譲したことでハンガリーはアドリア海への出口を失った。

ボヘミア王位継承とフス戦争

ボヘミア国民に人望があった、キリスト教改革派のフス派プロテスタントの先駆)の創始者であったヤン・フスは、コンスタンツ公会議で異端として有罪とされ[8]、ジギスムントはフスを火刑に処した[17][18]。このため、ボヘミア国民はジギスムントに対して不満を抱いた。復位を狙って対立していた前々帝にしてボヘミア王の異母兄ヴェンツェルが1419年に死去してジギスムントがボヘミア王位を継承することになると遂に不満は爆発し[19]、大規模な反乱を起こした。これがフス戦争である。

ジギスムントは反乱を鎮圧するため何度もボヘミアに軍を送り、教皇と共に対フス派十字軍の号令もかけたが、その都度フス派の指導者であるヤン・ジシュカの指揮する義勇兵(市民軍)の前に敗れ続けた。

また、ジギスムントがボヘミア王位を獲得したことで、ハンガリーへもフス戦争が波及した。1432年にボヘミア国境地帯で農民反乱が起きたのを皮切りに、ナジントルバ、トランシルヴァニアで次々と農民主導の反乱が起きた。これに対してローマ教皇はフランシスコ修道会士マルキアのヤコブスを異端審問官として派遣し、徹底的な弾圧を受けたフス派はモルダヴィアに逃れ、同地で聖書のハンガリー語訳(フス派聖書)を行った。フス戦争は1434年にボヘミア国内では収束するが、前後して急進派(ターボル派)の残党が多数ハンガリー北部、特にスロヴァキアに逃れてきた。彼らはターボル派の元幹部ヤン・イスクラの許で黒衛軍という独自の勢力を築いた。

ジギスムントは軍事的な解決ではなく政治的な解決を試みたが、政治改革や外交などの全てにおいて失敗したため、皇帝としての威信を完全に失った。

死去

1433年5月31日にローマ皇帝として戴冠し[20]、1436年にはボヘミア貴族によって正式にボヘミア王位を認められたが、翌1437年にズノイモにて[1][2]戦争で疲弊した国々を残して老人性悪性骨格潰瘍のため没した[21]。ジギスムントの死により、ルクセンブルク家の男系男子は絶えた。ローマ皇帝位、ハンガリー王位、ボヘミア王位は、オーストリア公アルブレヒト5世(ローマ王(ドイツ王)アルブレヒト2世、ハンガリー名アルベルト)が継承した。アルブレヒト5世はジギスムントの一人娘エリーザベトの婿であり、またかつて後継者に指名したアルブレヒト4世の息子であった。しかしアルブレヒトは2年後の1439年に病没し、ローマ皇帝・ハンガリー王・ボヘミア王にはそれぞれ異なる者が推戴された。

評価と遺産

ハンガリー

フニャディ・ヤーノシュ

ジギスムントは若い頃より浪費家で、自らの城を貴族に与えるなど、物惜しみしない人物であったといわれている[9]。また、泰然として仮借のない性格であったとも言われる[10]。ジギスムントのハンガリー統治は、ラヨシュ1世の遺産をことごとく食い潰したと言える。特に、対オスマン対策を怠ったことは後世非難され、現代でもハンガリーでの評価は低い。もっとも、ラヨシュ1世の統治自体がすでに不安定なものであり、そのつけをジギスムントが払わされた格好となったのもまた事実である。

ハンガリーにおいて、大貴族に対抗するために登用した新貴族の中からフニャディ・ヤーノシュが現れている。フニャディはワラキアの出身であるが、ジギスムントの庶子との噂があった。やがてフニャディは対オスマン戦で活躍し、その息子フニャディ・マーチャーシュの下で、ハンガリーは束の間の繁栄を迎える。

神聖ローマ帝国

粘り強い外交により教会統一を実現させることができた点はジギスムントの功績である[8][21]。もっとも、ブルクハルトは「半年以上もシエーナの市で、まるで借金を払えないため牢屋に入れられでもした人間のように、すわりとおし、のちにかろうじてローマで戴冠にまでこぎつけることができた」「まったくのいかさま師」と手厳しい[22]

子女

最初の妻マーリアとは子供がないまま死別した。

後妻バルバラとの間に娘1人をもうけた[8]

ジギスムントの死後、ローマ王、ボヘミア王、ハンガリー王はエリーザベトの夫であるアルブレヒト2世が継承することとなった。

登場作品

コミック
ゲーム

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ ローマ王は帝位の前提となった東フランク王位から改称された王号。現代から見れば実質ドイツ王だが、当時国家・地域・民族としてのドイツは成立途上である。またイタリアへの宗主権を備える。
  2. ^ 当時は古代ローマ帝国内でローマ人と混交したゲルマン諸国の後継国家群を漠然と神聖ローマ帝国と呼び、皇帝は古代帝国の名残であるローマ教会の教皇に任命され戴冠していた。「神聖ローマ皇帝」は歴史学的用語で実際の称号ではない。

出典

  1. ^ a b “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2022年1月31日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m Schlotheuber、p.358
  3. ^ 鈴本、p. 127
  4. ^ 鈴本、p. 128
  5. ^ 成瀬他、p. 379
  6. ^ Schlotheuber、p.358-359
  7. ^ 瀬原、p. 220
  8. ^ a b c d e f g h i j k Schlotheuber、p.359
  9. ^ a b 瀬原、p. 229
  10. ^ a b 鈴本、p. 129
  11. ^ a b 鈴本、p. 134
  12. ^ 瀬原、p. 240
  13. ^ 鈴本、p. 135
  14. ^ a b 瀬原、p. 242
  15. ^ 成瀬他、p. 377
  16. ^ 清原、p. 273
  17. ^ 瀬原、p. 268
  18. ^ 鈴本、p. 175-176
  19. ^ 鈴本、p. 189
  20. ^ 瀬原、p. 301
  21. ^ a b 瀬原、p. 309
  22. ^ 柴田治三郎責任編集『世界の名著 45 ブルクハルト』 中央公論社1966、80頁上。

参考文献

  • Schlotheuber, Eva, "Sigismund" in: Neue Deutsche Biographie 24 (2010), Dunker & Humblot, 2022年1月31日閲覧
  • 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史1』 山川出版社、1997年
  • 瀬原義生 『ドイツ中世後期の歴史像』 文理閣、2011年
  • 鈴本達哉 『ルクセンブルク家の皇帝たち』 近代文芸社、1997年
  • パムレーニエ・エルヴィン著、田代文雄・鹿島正裕共訳 『ハンガリー史1《増補版》』恒文社 1990年
  • 南塚信吾著 『新版世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社 1999年

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、ジギスムント (神聖ローマ皇帝)に関連するカテゴリがあります。
先代
ヴェンツェル(ヴェンセラス)2世
ルクセンブルク公
1378年 - 1388年
次代
ヨープスト(ジョス)
先代
ヴェンツェル
ブランデンブルク選帝侯
1378年 - 1388年
次代
ヨープスト
先代
ヨープスト
ブランデンブルク選帝侯
(復位)1411年 - 1415年
次代
フリードリヒ1世
先代
ヴァーツラフ4世
ボヘミア王
1419年 - 1437年
次代
アルブレヒト2世
先代
カーロイ2世
マーリア
ハンガリー王
1387年 - 1437年
(1395年までマーリアと共同統治)
次代
アルベルト
歴代ドイツ君主・盟主
カロリング朝
  • (ピピン751-768
  • カール1世皇帝(768)-814
  • ルートヴィヒ1世皇帝814-840
  • ロタール1世皇帝840-843
  • ルートヴィヒ2世843-876
  • カールマン2世876-880
  • ルートヴィヒ3世876-882
  • カール3世皇帝876-887
  • アルヌルフ皇帝887-899
  • ルートヴィヒ4世899-911
  • 断絶
  • コンラート1世1911-918
共同王
  • (カールマン1世768-771
ザクセン朝
  • ハインリヒ1世919-936
  • オットー1世皇帝936-973
  • オットー2世皇帝973-983
  • オットー3世皇帝983-1002
  • ハインリヒ2世皇帝1002-1024
共同王
  • オットー2世皇帝961-973
対立王
  • バイエルン公アルヌルフ919-921
  • バイエルン公ハインリヒ2世984-985
ザーリアー朝
  • コンラート2世皇帝1024-1039
  • ハインリヒ3世皇帝1039-1056
  • ハインリヒ4世皇帝1056-1105
  • ハインリヒ5世皇帝1105-1125
  • 断絶
  • ロタール3世2,皇帝1125-1137
共同王
  • ハインリヒ3世1028-1039
  • ハインリヒ4世1053-1156
  • イタリア王コンラート1087-1098
  • ハインリヒ5世1198-1105
対立王
ホーエンシュタウフェン朝
  • コンラート3世1138-1152
  • フリードリヒ1世皇帝1152-1190
  • ハインリヒ6世皇帝1190-1197
  • フリードリヒ2世1197-1198
  • フィリップ1198-1208
  • 中断
  • オットー4世3,皇帝1208-1215
  • 再開
  • フリードリヒ2世皇帝(復位)1215-1220
  • ハインリヒ(7世)1220-1235
  • コンラート4世1237-1254
共同王
  • ハインリヒ6世1169-1190
  • フリードリヒ2世1194-1197
対立王
  • ヴェルフ家オットー1198-1208
  • シチリア王フリードリヒ1212-1215
  • ハインリヒ・ラスペ1246-1247
  • ホラント伯ヴィルヘルム1248-1254
大空位時代
  • ホラント伯ヴィルヘルム1254-1256
  • コルンヴァル伯リヒャルト1257-1272
対立王
  • カスティーリャ王アルフォンソ10世1257-1275
非世襲期
  • ルドルフ1世41273-1291
  • アドルフ51292-1298
  • アルブレヒト1世41298-1308
  • ハインリヒ7世6,皇帝1308-1313
  • ルートヴィヒ5世7,皇帝1314-1347
  • カール4世6,皇帝1347-1378
  • ヴェンツェル61378-1400
  • ループレヒト71400-1410
  • ジギスムント6,皇帝1410-1437
  • アルブレヒト2世41438-1439
共同王
  • フリードリヒ3世41325-1230
  • ヴェンツェル61376-1478
対立王
ハプスブルク家
  • フリードリヒ4世皇帝1440-1493
  • マクシミリアン1世皇帝1493-1519
  • カール5世皇帝1519-1556
  • フェルディナント1世皇帝1556-1564
  • マクシミリアン2世皇帝1564-1576
  • ルドルフ2世皇帝1576-1612
  • マティアス皇帝1612-1619
  • フェルディナント2世皇帝1619-1637
  • フェルディナント3世皇帝1637-1657
  • レオポルト1世皇帝1658-1705
  • ヨーゼフ1世皇帝1705-1711
  • カール6世皇帝1711-1740 | 断絶 | カール7世7,皇帝1742-1745
共同王
  • マクシミリアン1世1486-1593
  • フェルディナント1世1531-1556
  • マクシミリアン2世1562-1564
  • ルドルフ2世1575-1676
  • フェルディナント3世1636-1637
  • フェルディナント4世1653-1654
  • ヨーゼフ1世1690-1705
ハプスブルク=ロートリンゲン家
  • フランツ1世皇帝1745-1765
  • ヨーゼフ2世皇帝1765-1790
  • レオポルト2世皇帝1790-1792
  • フランツ2世皇帝(オーストリア皇帝フランツ1世)1792-1806
ライン同盟
連邦主席
  • オーストリア皇帝フランツ1世1815-1835
  • オーストリア皇帝フェルディナント1世1835-1848
  • ヨハン大公(帝国執政)1848-1849
  • オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世1850-1866
  • プロイセン王ヴィルヘルム1世(北ドイツ連邦)1867-1871
ドイツ皇帝
  • プロイセン王ヴィルヘルム1世1871-1888
  • プロイセン王フリードリヒ3世1888
  • プロイセン王ヴィルヘルム2世1888-1918
神聖ローマ帝国旗神聖ローマ皇帝(1433年 - 1437年)神聖ローマ帝国章
カロリング朝
  • カール1世800-814
  • ルートヴィヒ1世813-840
  • ロタール1世817-855
  • ルートヴィヒ2世850-875
  • カール2世875-877
  • カール3世881-887
  • グイード1891-894
  • ランベルト1891-898
  • アルヌルフ896-899
  • ルートヴィヒ3世2901-915
  • ベレンガル3915-924
ザクセン朝
  • オットー1世962-973
  • オットー2世967-983
  • オットー3世996-1002
  • ハインリヒ2世1014-1024
ザーリアー朝
  • コンラート2世1027-1039
  • ハインリヒ3世1046-1056
  • ハインリヒ4世1084-1105
  • ハインリヒ5世1111-1125
  • ロタール3世41133-1137
ホーエンシュタウフェン朝
  • フリードリヒ1世1155-1190
  • ハインリヒ6世1191-1197
  • オットー4世51209-1215
  • フリードリヒ2世1220-1250
ルクセンブルク家
  • ハインリヒ7世1312-1313
  • ルートヴィヒ4世61328-1347
  • カール4世1355-1378
  • ジギスムント1433-1437
ハプスブルク家
  • フリードリヒ3世1452-1493
  • マクシミリアン1世1508-1519
  • カール5世1530-1556
  • フェルディナント1世1558-1564
  • マクシミリアン2世1564-1576
  • ルドルフ2世1576-1612
  • マティアス1612-1619
  • フェルディナント2世1619-1637
  • フェルディナント3世1637-1657
  • レオポルト1世1658-1705
  • ヨーゼフ1世1705-1711
  • カール6世1711-1740
  • カール7世61742-1745
ハプスブルク=ロートリンゲン家
  • フランツ1世71745-1765
  • ヨーゼフ2世1765-1790
  • レオポルト2世1790-1792
  • フランツ2世1792-1806
ハンガリー王国旗ハンガリー国王(1387年 - 1437年)ハンガリー王国章
アールパード朝(大公)
  • アールモシュ(英語版)855頃-895頃
  • アールパード895頃-907頃
  • ジョルト(英語版)907頃-947頃
  • ファリチ(英語版)947頃-955頃
  • タクショニュ(英語版)955頃-972頃
  • ゲーザ(英語版)972頃-997
  • イシュトヴァーン997-1000
アールパード朝(王)
  • イシュトヴァーン1世1000-1038
  • ペーテル1038-1041
  • シャームエル1041-1044
  • ペーテル(復位)1044-1046
  • アンドラーシュ1世1046-1060
  • ベーラ1世1060-1063
  • シャラモン1063-1074
  • ゲーザ1世1074-1077
  • ラースロー1世1077-1095
  • カールマーン1095-1116
  • イシュトヴァーン2世1116-1131
  • ベーラ2世1131-1141
  • ゲーザ2世1141-1162
  • イシュトヴァーン3世1162-1172
  • ラースロー2世(対立王)1162-1163
  • イシュトヴァーン4世(対立王)1163-1165
  • ベーラ3世1172-1196
  • イムレ1196-1204
  • ラースロー3世1204-1205
  • アンドラーシュ2世1205-1235
  • ベーラ4世1235-1270
  • イシュトヴァーン5世1270-1272
  • ラースロー4世1272-1290
  • アンドラーシュ3世1290-1301
プシェミスル朝
  • ヴェンツェル1301-1305
ヴィッテルスバッハ朝
  • オットー1305-1307
アンジュー朝
  • カーロイ1世1308-1342
  • ラヨシュ1世1342-1382
  • マーリア1382-1385
  • カーロイ2世1385-1386
  • マーリア(復位)1386-1395
ルクセンブルク朝
  • ジグモンド1387-1437
ハプスブルク朝
  • アルベルト1437-1439
ヤゲロー朝
  • ウラースロー1世1440-1444
ハプスブルク朝
フニャディ朝
  • マーチャーシュ1世1458-1490
ヤゲロー朝
  • ウラースロー2世1490-1516
  • ラヨシュ2世1516-1526
ハプスブルク朝
ハプスブルク=ロタリンギア朝
  • ヨージェフ2世1780-1790
  • リポート2世1790-1792
  • フェレンツ1世1792-1835
  • フェルディナーンド5世1835-1848
  • フェレンツ・ヨージェフ1世1848-1916
  • カーロイ4世1916-1918
  • 1918年、ハンガリー人民共和国成立
ボヘミアの旗 ボヘミア君主 ボヘミア王国の紋章
プシェミスル朝(ボヘミア公)
  • ボジヴォイ1世850/71-894/5
  • スピチフニェフ1世894/5-905/15
  • ヴラチスラフ1世905/15-921
  • ヴァーツラフ1世921-929
  • ボレスラフ1世929-967
  • ボレスラフ2世967-999
  • ボレスラフ3世996-1002
ピャスト朝(ボヘミア公)
  • ヴラジヴォイ1002-1003
  • ボレスラフ4世1003-1004
プシェミスル朝(ボヘミア公)
  • ヤロミール1004-1012
  • オルドジフ1012-1033
  • ヤロミール(復位)1033-1034
  • ブジェチスラフ1世1034-1055
  • スピチフニェフ2世1055-1061
  • ヴラチスラフ2世1061-1092(王:1085-1092)
  • コンラート1世1092
  • ブジェチスラフ2世1092-1100
  • ボジヴォイ2世1100-1107
  • スヴァトプルク1107-1109
  • ヴラジスラフ1世1109-1117
  • ボジヴォイ2世(復位)1117-1120
  • ヴラジスラフ1世(復位)1120-1125
  • ソビェスラフ1世1125-1140
  • ヴラジスラフ2世1140-1173(王:1158-1173)
  • ベドジフ1172-1173
  • ソビェスラフ2世1173-1178/9
  • ベドジフ(復位)1178/9-1189/92
  • コンラート2世1189-1191
  • ヴァーツラフ2世1191-1192
  • オタカル1世1192-1193
  • インジフ・ブジェチスラフ1193-1197
  • ヴラジスラフ3世1197
  • オタカル1世(復位)1197-1198
プシェミスル朝(ボヘミア王)
  • オタカル1世1198-1230
  • ヴァーツラフ1世1230-1253
  • オタカル2世1253-1278
  • ヴァーツラフ2世1278-1305
  • ヴァーツラフ3世1305-1306
メンハルド朝
  • インジフ・コルタンスキー1306
ハプスブルコヴェ朝
  • ルドルフ1世1306-1307
メンハルド朝
  • インジフ・コルタンスキー(復位)1307-1310
ルケンブルコヴェ朝
ハプスブルコヴェ朝
ポジェブラト朝
  • イジー1458-1471
フニャディ朝
  • マティアス1世(対立王)1469-1490
ヤゲロンキ朝
  • ヴラジスラフ・ヤゲロンスキー1471-1516
  • ルドヴィーク1516-1526
ハプスブルコヴェ朝
  • フェルジナント1世1526-1564
  • マクシミリアン1世1564-1576
  • ルドルフ2世1576-1612
  • マティアス2世1612-1619
ヴィッテルスバホヴェ(ファルツ)朝
  • フリードリヒ1世1619-1620
ハプスブルコヴェ朝
  • フェルジナント2世1620-1637
  • フェルジナント3世1637-1646
  • フェルジナント4世1646-1654
  • レオポルト1世1655-1705
  • ヨゼフ1世1705-1711
  • カレル2世1711-1740
  • マリエ・テレジエ1740-1741
ヴィッテルスバホヴェ(バヴォルスコ)朝
  • カレル3世・アルブレフト1741-1743
ハプスブルコヴェ朝
ハプスブルスコ=ロートリンスカ朝
  • ヨゼフ2世1780-1790
  • レオポルト2世1790-1792
  • フランティシェク1世1792-1835
  • フェルジナント5世1835-1848
  • フランティシェク・ヨゼフ1世1848-1916
  • カレル3世1916-1918
典拠管理データベース ウィキデータを編集
全般
  • FAST
  • ISNI
  • VIAF
  • WorldCat
国立図書館
  • ノルウェー
  • スペイン
  • フランス
  • BnF data
  • ドイツ
  • イスラエル
  • ベルギー
  • アメリカ
  • スウェーデン
  • ラトビア
  • チェコ
  • オーストラリア
  • クロアチア
  • オランダ
  • ポーランド
  • バチカン
芸術家
  • ULAN
人物
  • ドイッチェ・ビオグラフィー
  • Trove(オーストラリア)
    • 1
その他
  • スイス歴史辞典
  • IdRef