ブラウンシュヴァイクの宣言

ブラウンシュヴァイクの宣言書で、尻を拭き、タバコに火を付ける人々

ブラウンシュヴァイクの宣言: Manifeste de Brunswick, : Manifest des Herzogs von Braunschweig, : Brunswick Manifesto)は、フランス革命戦争中の1792年7月25日に同盟軍司令官ブラウンシュヴァイク公爵が発した宣言である。パリ市民が国王ルイ16世に少しでも危害を加えればパリ市の全面破壊も辞さないという内容の脅迫であったが、より一層市民を怒らせ、敵に守護される国王の廃位要求に彼らをかき立てる結果になった。

英語の読みにより、ブランズウィックの宣言とも言う。

概要

1792年6月20日テュイルリー宮殿に侵入したサン・キュロット民兵に侮辱を受け、赤いフリジア帽を被らされたルイ16世であったが、拒否権は放棄せずに、民衆と共に乾杯して頑として譲歩を拒んだ。暴徒は市長ペティヨンの介入によってようやく解散したが、この事件は武装した暴徒が宮殿内の寝室まで踏み込んでくるという由々しき状況であった。王子らと共に議会議場に避難を強いられたマリー・アントワネットは大変怯えて、オーストリアの駐仏大使メルシー=アルジェントー伯爵[1]に手紙を書き、彼を介して、ブラウンシュヴァイク公爵に同盟軍が何らかの声明を発してジャコバン派を脅迫し、恐怖に震え上がらせてやるように懇願した。公爵はあまり効果があるとは思えなかったので乗り気ではなかったが、メルシー大使の根気強い説得にまけ、7月25日コブレンツで同宣言を発表した。

宣言の内容は、まず革命政府によるオーストリアとプロイセンに対する侵略を非難し、続いてフランス国王の自由と権力が回復されるべき事を主張した上で、両国はやむを得ない状況によって戦争に引き込まれたもので、自国の利益のためフランスを征服するわけではないこと、また両国はフランスの内政に干渉する意図はいささかもなく、フランス国王一家を救出し、フランス国王が統治を行うのに必要な安全を確保するために協力すること以外は望んでおらず、フランス国王に服従し、同盟軍に対し戦闘行動をとらないすべてのフランス人の生命および財産は保護されるとする一方、立法議会とすべての行政関係者およびパリ国民衛兵のメンバーは容赦なく軍法会議にかけられるものとし、さらにもし王宮が襲撃され、フランス国王とその家族に重大な侮辱もしくは危害が加えられたならば、同盟軍は見せしめとしてパリを全面的に破壊し、叛徒どもにしかるべき刑罰を与えるとするものであり、続いて7月27日には国王一家が万一パリ市民によってパリ以外の地に連行されるなら、その通過を妨げないすべての土地および都市はパリと同様の運命に見舞われるとする追加宣言が発表された[2]

この宣言は7月28日頃にパリに届き、8月1日までの間に市民のあらゆる階層を激怒させた。フランスの国王は敵国の司令官に守られる存在であることが明らかになり、祖国を救うには王政を打倒しなければならないという認識が広まった。すでに高まっていた不満が一気に爆発して後戻りできないところまできて、48地区のうちで47地区[3]が国王廃位に賛成の署名をするに至る。これら一連の動きが8月10日事件の民衆蜂起が起こる直接の引き金となった。

脚注・出典

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  1. ^ フロリモン=クロード・ド・メルシー=アルジェントー伯爵(Florimond Claude, Comte de Mercy-Argenteau)
  2. ^ 「資料 フランス革命」p193-198にこれらの宣言の邦訳が収録されている(田中正人訳)
  3. ^ 残りの1地区はフィユ・サン=トマ地区という王党派の支配する地区で、この地区は1795年ヴァンデミエールの反乱でも王党派として活動した筋金入り。8月10日事件でもパリで唯一、国王のために戦った

参考文献

関連項目

フランス語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
Brunswick Manifesto
 
主要事件
1788年
  • 屋根瓦の日(1788年6月7日)
  • ヴィジーユ会議(英語版)(1788年7月21日)
1789年
1790年
  • 高等法院の廃止(1790年2月-7月)
  • 貴族階級の廃止(英語版)(1790年6月19日)
  • 聖職者民事基本法(1790年7月12日)
1791年
1792年
1793年
1794年
1795年
1797年
1799年
 
1792年
1793年
  • 第一次対仏大同盟
  • トゥーロン攻囲戦(1793年9月18日-12月8日)
  • ヴァンデの反乱
  • ネールウィンデンの戦い
  • ファマールの戦い(1793年5月23日)
  • サルデーニャ遠征(1793年5月25日)
  • カイザースラウテルンの戦い (en
  • マインツ包囲戦
  • ワッティニーの戦い (en
  • オンショオットの戦い (en
  • ベルガルド包囲戦
  • ペレストルトの戦い (en
  • 第一次ヴィサンブールの戦い (en(1793年10月13日)
  • トルイヤの戦い (en
  • 第二次ヴィサンブールの戦い (en(1793年12月26日-27日)
1794年
  • ヴィレ=アン=コシの戦い (en(1794年4月24日)
  • ブルの戦い (en(1794年4月30日-5月1日)
  • トゥルネーの戦い (en(1794年5月22日)
  • フルーリュスの戦い (en(1794年6月26日)
  • ふくろう党の反乱 (en
  • トゥールコワンの戦い (en(1794年5月18日)
  • アルデンホーフェンの戦い (en(1794年10月2日)
1795年
1796年
  • ロナートの戦い (en(1796年8月3日-4日)
  • カスティリオーネの戦い(1796年8月5日)
  • タイニンゲンの戦い (en
  • ネレスハイムの戦い (en(1796年8月11日)
  • アンベルクの戦い (en(1796年8月24日)
  • ヴュルツブルクの戦い (en(1796年9月3日)
  • ロヴェレートの戦い (en(1796年9月4日)
  • 第一次バッサーノの戦い (en(1796年9月8日)
  • エメンディンゲンの戦い (en(1796年10月19日)
  • シュリーンゲンの戦い (en(1796年10月26日)
  • 第二次バッサーノの戦い (en(1796年11月6日)
  • カッリアーノの戦い (en(1796年11月6日-7日)
  • アルコレの戦い(1796年11月15日-17日)
  • アイルランド遠征(1796年12月)
1797年
1798年
  • エジプト遠征(1798年-1801年)
  • マニラ奇襲(1798年1月)
  • 1798年アイルランド反乱 (en(1798年5月23日-9月23日)
  • 擬似戦争(1798年-1800年)
  • 農民戦争 (en(1798年10月12日-12月5日)
1799年
  • 第二次対仏大同盟(1798年-1802年)
  • アッコ包囲戦(1799年3月20日-5月21日)
  • オストラッハの戦い (en(1799年3月20日-21日)
  • シュトックアッハの戦い (en(1799年3月25日)
  • マニャーノの戦い (en(1799年4月5日)
  • カッサーノの戦い (en(1799年4月27日)
  • 第一次チューリッヒの戦い (en(1799年6月4日-7日)
  • トレッビアの戦い (en(1799年6月19日)
  • ノーヴィの戦い (en(1799年8月15日)
  • 第二次チューリッヒの戦い (en(1799年9月25日-26日)
1800年
1801年
  • リュネヴィルの和約(1801年2月9日)
  • フィレンツェ条約 (en(1801年3月18日)
  • アルヘシラス湾の戦い (en(1801年7月8日)
1802年
 
軍事指揮官
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フランスの旗 フランス海軍
  • シャルル=アレクサンドル・リノワ (en
対仏大同盟軍
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ネーデルラント連邦共和国の旗 オランダ
  • ウィレム5世
プロイセン王国 プロイセン
  • ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公
  • ホーエンローエ=インゲルフィンゲン侯
ロシア帝国の旗 ロシア
スペイン スペイン
  • ルイス・フィルミン・デ・カルバハル
  • アントニオ・リカルドス (en
 
主要人物・党派
王族王党派
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ジロンド派
山岳派
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過激派
ボナパルト派
その他