マリーア・クレメンティーナ・ダズブルゴ=ロレーナ (1798-1881)
この項目では、サレルノ公爵夫人について説明しています。両シチリア王太子妃については「マリーア・クレメンティーナ・ダウストリア」をご覧ください。 |
マリーア・クレメンティーナ・ダズブルゴ=ロレーナ Maria Clementina d'Asburgo-Lorena | |
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オーストリア大公女・サレルノ公爵夫人マリーア・クレメンティーナ | |
出生 | (1798-03-01) 1798年3月1日 ハプスブルク帝国、ウィーン |
死去 | (1881-09-03) 1881年9月3日(83歳没) フランス共和国、シャンティイ城 |
配偶者 | サレルノ公レオポルド |
子女 | マリーア・カロリーナ |
父親 | オーストリア皇帝フランツ2世(1世) |
母親 | マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジツィーリエン |
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マリーア・クレメンティーナ・ダズブルゴ=ロレーナ(イタリア語:Maria Clementina d'Asburgo-Lorena, 1798年3月1日 - 1881年9月3日)は、両シチリア王子・サレルノ公レオポルドの妃。
生涯
神聖ローマ皇帝フランツ2世(のちのオーストリア皇帝フランツ1世)とその皇后マリア・テレジアの五女として、ウィーンで生まれた。ドイツ語名はマリア・クレメンティーネ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(Maria Klementine von Habsburg-Lothringen)。パルマ女公マリア・ルイーザ、オーストリア皇帝フェルディナンド1世、ブラジル皇后マリア・レオポルディナの妹にあたる。
1816年、母の実弟で8歳しか年齢が違わない叔父にあたるレオポルド王子と結婚、4子をもうけるが、成人したのはマリーア・カロリーナただ一人であった。マリーア・カロリーナは、フランス王ルイ・フィリップの息子オマール公アンリと結婚した。1851年にレオポルドと死別後、マリーア・クレメンティーナは娘夫婦の元に身を寄せた。
1869年にマリーア・カロリーナが死去。その後も義理の息子アンリと暮らし、1881年にシャンティイ城で死去した。
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