ルートヴィヒ・フォン・ヴュルテンベルク

ルートヴィヒ・フォン・ヴュルテンベルク
Ludwig von Württemberg
ルートヴィヒ(左)の肖像画、1800年

出生 (1756-08-30) 1756年8月30日
トゥシェビャトゥフ
死去 (1817-09-20) 1817年9月20日(61歳没)
キルヒハイム
配偶者 マリア・アンナ・チャルトリスカ
  ヘンリエッテ・フォン・ナッサウ=ヴァイルブルク
子女 アダム
マリア・ドロテア
アマーリエ
パウリーネ
エリーザベト・アレクサンドリーネ
アレクサンダー
家名 ヴュルテンベルク家
父親 ヴュルテンベルク公フリードリヒ2世オイゲン
母親 フリーデリケ・ドロテア・ゾフィア・フォン・ブランデンブルク=シュヴェート
テンプレートを表示

ルートヴィヒ・フリードリヒ・アレクサンダー・フォン・ヴュルテンベルクドイツ語:Ludwig Friedrich Alexander von Württemberg, 1756年8月30日 - 1817年9月20日)は、ヴュルテンベルクフリードリヒ2世オイゲンと、その妃でブランデンブルク=シュヴェート辺境伯フリードリヒ・ヴィルヘルムの娘であるフリーデリケ・ドロテア・ゾフィアの間の次男。初代ヴュルテンベルクフリードリヒ1世のすぐ下の弟で、ロシア皇后マリア・フョードロヴナの兄。

ルートヴィヒは1784年にポーランド・リトアニア共和国の大貴族アダム・カジミェシュ・チャルトリスキ公の娘マリア・アンナと結婚し、リトアニア軍に騎兵隊の将軍として出仕していた。しかし1792年にロシア・ポーランド戦争が始まると、ロシア皇太子妃の実兄であるルートヴィヒはロシアと戦うのを拒んで戦線を離脱した。妻マリア・アンナは夫がポーランドを裏切ったことを知ると離婚を決意し、夫妻は翌1793年に離婚した。

子女

1784年10月28日にマリア・アンナ・チャルトリスカと結婚したが、1793年に離婚した。間に1子をもうけた。

1797年1月28日、バイロイト郊外のヘルミターゲでナッサウ=ヴァイルブルク侯カール・クリスティアンの娘ヘンリエッテと再婚し、5人の子女をもうけた。

  • マリア・ドロテア(1797年 - 1855年) - 1819年、ハンガリー副王ヨーゼフ・アントン大公と結婚
  • アマーリエ(1799年 - 1848年) - 1817年、ザクセン=アルテンブルク公ヨーゼフと結婚
  • パウリーネ(1800年 - 1873年) - 1820年、従兄のヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世と結婚
  • エリーザベト・アレクサンドリーネ(1802年 - 1864年) - 1830年、バーデン大公レオポルトの弟ヴィルヘルムと結婚
  • アレクサンダー(1804年 - 1885年) - ヴュルテンベルク家の庶流テック公爵家の祖(テック公フランツの父親)
  • 表示
  • 編集
スタブアイコン

この項目は、ドイツの歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています。

  • 表示
  • 編集
典拠管理データベース ウィキデータを編集
全般
  • VIAF
  • WorldCat
国立図書館
  • ドイツ
  • ポーランド
人物
  • ドイッチェ・ビオグラフィー