南淵請安

南淵 請安(みなぶち の しょうあん、生没年不詳)は、飛鳥時代の学問僧。大和国高市郡南淵村(現在の奈良県の飛鳥川上流の明日香村稲渕)出身の学者。『日本書紀』に「南淵漢人請安」とあり、漢人渡来人とされる[1]

経歴

608年推古天皇16年)、遣隋使小野妹子に従い高向玄理ら8人の留学生、留学僧の一人として留学する。32年間、隋の滅亡(618年)からの建国の過程を見聞して、640年舒明天皇12年)に高向玄理とともに帰国。隋の学問知識を日本に伝え、開塾した。

中大兄皇子中臣鎌足は請安の塾に通う道すがら蘇我氏打倒の計画を練ったと伝えられる。請安が伝えた知識が大化の改新に与えた影響は大きいが、彼自身が新政府に加わった痕跡はなく、死去した時期はそれ以前であるとする説がある[2]

権藤成卿によると、『南淵書』という本を著したとされるが、現在では偽書と解釈されている。

演じた人物

脚注

  1. ^ ブリタニカ国際大百科事典『南淵請安』 - コトバンク
  2. ^ “南淵請安の墓”. 奈良県. 2022年7月16日閲覧。
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