木下延由

 
凡例
木下延由
時代 江戸時代前期
生誕 慶長15年(1610年[2]または慶長19年11月9日(1614年12月9日[3]
死没 万治元年7月6日(1658年8月4日
改名 木下縫殿助、羽柴延由
別名 延次、良照(法名)、通称:八蔵、
戒名 江岸殿月渕良照居士
墓所 泉岳寺
官位 縫殿助
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家光家綱
豊後立石領
氏族 木下氏
父母 父:木下延俊、母:恵昌院
兄弟 俊治、女(松平忠重正室)、女(木下利当正室)、延由、俊之、俊重、ほか
先室:大久保忠常養女[1][4]
後室:小浜嘉隆[1]
延知、江坂延明
特記
事項
豊臣国松と同一人物であるという異説あり。
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木下 延由(きのした のぶよし)は、江戸時代前期の旗本交代寄合豊臣秀吉の正室・高台院の一族である木下氏で、豊後国日出藩主の四男。通称は八蔵、縫殿助。別名に延次

大坂城落城による豊臣家滅亡の後、豊臣秀頼が薩摩に落ち延び、その庶子の豊臣国松が延由の正体であるとする異説を、日出藩主の直系子孫が語り継いでいる。(後述

略歴

日出藩初代藩主である木下延俊の四男として誕生した[1]

母は延俊の側室の恵昌院(賀井の方)で広田氏の出[1]。庶子であり、同腹に4人の妹がいる。異母兄に日出藩2代藩主の俊治がいる。

寛永19年(1642年)5月9日、父の遺領のうち豊後国速見郡立石5,000石を分知された[1][5]

6月1日に徳川家光に拝謁し、領地に赴くことを許された(交代寄合[1]正保3年(1646年)に初めて領地に入った。

万治元年(1658年)没、享年49[2]。法名、江岸殿月渕良照居士。泉岳寺に葬られる[1]。家は子の延知が継いだ。

異説

延由の正体は、豊臣秀頼の庶子・国松だとする異説がある。

木下家18代当主にあたる木下俊𠘑は、同家に伝わる一子相伝の口伝をもとに、昭和43年(1968年)に豊臣家九州逃亡譚を集めた『秀頼は薩摩で生きていた』を刊行した。

相伝によれば、「秀頼公の一子・国松君は大坂城落城の際、真田大助らと共に四国路を薩摩国に逃れ、伊集院兼貞の庇護のもとにあった」とされる[6]。俊𠘑は伊集院兼貞は誤伝であり、伊集院は地名で、虚無僧の集落であって、人物は伊地知兼貞であったとする[6]

徳川の治世が確固となった後は、この地も危うくなったので、親族の日出藩に身を寄せることにして、領内南端の豊後深江の浜に着船させ、日ノ出城に入ったとする[6]。高台院の甥にあたる藩主の延俊は、八蔵という百姓のような名になっていた国松を縫殿助と改め、木下家に迎え入れ、すでに嫡男(長男と次男は早世のため三男)がいたので、縫殿助は二代俊治の弟となった[3]

同説では、縫殿助(延由)は慶長19年(1614年)11月9日の生まれで、同年10月27日生まれ俊治とは年子で12日違いとなる[3]

延俊は寛永19年(1642年)1月7日に66歳で没するが、江戸屋敷で息を引き取る前に家老の長沢市之丞に遺言を残しており、「嫡男俊治を二代藩主とすること。そして弟の縫殿助には日出領内の立石郷1万石を分封させ、その際に、羽柴姓を名乗らせて名を延由にせよ」というものだった[7]。日出藩は3万石しかなく1万石を分封すれば大名家の格下げになるため、家老の長沢は「5千石の分封承り申した」と主張を続けて、立石郷5千石に留まることになった[8]

この形で初代藩主の遺言として幕府に願い出でられて、結局、三年後に立石藩5千石が正式に許可された[9]。家老として日出藩の立場を守った市之丞は、延宝元年(1673年)、延俊の死から31年も経って、主命の背いたことをわびた遺書を残して切腹した[10]。伝承に拠れば、延由の正体を知った長沢が「亡き主君の意志を理解し得ず、君命に背いてしまった」と悔恨したためともいう[11]

立石郷の木下家菩提寺である長流寺[12]には、延由のものとされる位牌が納められている。位牌には菱に十文字の家紋が印され、俗名には「木下縫殿助豊臣延由」とある[13]。同寺の過去帳では、延由の享年は45となる[14]

前川和彦は、立石羽柴家が「豊臣姓」を名乗ることは本来はありえないことで、延由たる国松が秀吉の嫡孫たる誇りを持っていたに違いなく、そして位牌は幕府の目を警戒して長流寺の奥深くに秘蔵されてきたのではないかと述べている[13]。高橋敏は、豊臣姓を名乗ることは本藩木下家にも許されていなかったとし、幕府も隠密の調べによって、延由が実は国松であると知っていながら、わざと見ぬ振りをしていたのではないかと述べている[11]

ただし、江戸幕府の命で延俊・延由在世中に作成された『寛永諸家系図伝[15]や『寛政重修諸家譜』では、日出藩・足守藩・延次(延由)の家系はすべて豊臣氏として扱われており、父家定は木下氏への改姓とともに豊臣姓を称したとされている[16]

系譜

  • 父:木下延俊(1577-1642)
  • 母:恵昌院(広田氏) - 賀井の方
  • 正室:大久保忠常養女(?-1652) - 里見忠義の娘
  • 継室:小浜嘉隆
  • 生母不明の子女
    • 男子:木下延知(新太郎、内匠)-立石領主を継承。記録では家系は1923年まで存続が確認できる。妻は坂部広利の娘
    • 男子:江坂延明(宗四郎、紀四郎)-内藤紀伊守家臣・江坂正由の養子。
    • 二女あり

子孫

息子・延知以降、血統上では雲孫の子である俊清の代(この代で明治維新を迎える)まで、家統上では1923年、俊清の養子の娘・ちか姫の代まで存続している。

交代寄合立石領木下氏

木下延知の子

  • 女子
  • 女子
  • 女子
  • 木下松千代 - 早世
  • 木下重俊 - 鶴千代、縫殿助。室は大身旗本本多彦八郎家本多忠将の娘
  • 女子 - 旗本小浜良隆[17]室(後に離縁)、旗本坪内定治[18]
  • 木下延房 - 幸松、多喜之助、数馬、新三郎
  • 女子
  • 女子 - 旗本前田勝誠[19]
曾孫

木下重俊の子。

  • 八蔵 - 早世
  • 女子
  • 女子
  • 女子
  • 永治郎 - 早世
  • 女子
  • 木下栄俊 - 延武、亀千代、亀之助、縫殿助。室は本藩藩主の木下俊量の娘。
  • 牧野勝成 - 延成、万次郎、幸之助、靱負、半三郎。旗本牧野嘉成の養子。
  • 女子 - 筒井忠雄室。
  • 女子 - 家臣・太田氏の養女。
  • 男子 - 名は「のりかた」。熊五郎、斎宮。
  • 女子 - 家臣・山田氏の妻。
  • 木下俊允 - 千吉、主税、伊織、肥後国熊本藩細川越中守家臣・木下俊親の養子。
玄孫

木下栄俊の子。

  • 女子
  • 木下俊恒 - 彦治郎、亀之助。父に先立って死去。
  • 男子 - 多門。早世
  • 木下俊徳 - 長内、辰五郎、大蔵、内匠助、縫殿助。室は備中国岡田藩伊東長丘の娘。
  • 花房俊胤 - 富五郎、安之助、左守。旗本花房職虎の婿養子。
  • 女子
  • 木下俊耀 - 市之進、主水、隼人。
来孫

木下俊徳の子。

  • 円治郎 - 早世
  • 豊治郎 - 早世
  • 亀太郎 - 早世
  • 木下俊昌 - 初名は俊爽。熊五郎、辰五郎、大内蔵。室は備中国岡田藩伊東長詮の娘で従姉妹。
  • 虎三郎
  • 幸之丞
  • 長之助
  • 女子
  • 直次郎 - 杉原を称した。
昆孫

木下俊昌の子。

  • 養昆孫:木下俊直 - 初名は義直。喜之助、縫殿助。土方雄端の三男。
  • 実昆孫:木下俊隆 - 辰五郎、内匠助。先代の俊昌の遺腹の子(二男)。義兄である俊直の養子となり、系譜上は俊昌の孫になる。室は水野忠実の娘
仍孫

義理の昆孫である木下俊直と実の昆孫である木下俊隆に子女あり。

  • 土方義苗 - 木下俊直の子。彦吉、大和守。俊直の実家である伊勢国菰野藩土方雄貞の養子として同藩継承。
  • 吉太郎 - 木下俊直の子
  • 常之助 - 木下俊直の子
  • 乙治郎 - 木下俊直の子。亀之丞。
  • 木下俊芳 - 木下俊隆の子。次之助、泰俊。
雲孫

木下俊芳の子。男系子孫はここまで。

  • 女子 - 木下俊国の妻。
  • 養嗣子:木下俊国 - 図書助。立石木下家を継承。
雲孫の子

雲孫にあたる女子と木下俊国の子

  • 木下俊清 - 亀千代、内匠助。羽柴姓を名乗る。

俊清の代で明治維新を迎える。実子は無く、延由の血統上による立石木下家は俊清の代で断絶した。

雲孫の孫
  • 木下俊明 - 1860年 - 1916年。羽柴喜久丸、羽柴俊明、俊朗。俊清の養子。妻はお峰。享年57

俊明の代から、立石木下家は延由と血縁は無くなる。公家桑原為政(桒原為政)[20]の子である為。

雲孫の曾孫

養祖父である俊清の代で立石木下家の血統は絶えていたが、ちか姫の代で立石木下家の家統も断絶している。

※ 仮に延由=国松だとすれば、秀吉・秀頼父子の血統は徳川幕府の滅亡を目の当たりにした後、明治時代まで存続したことになる。また各旗本家に養子として入り各々子孫を残したことになる。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g h 堀田 1923, p. 180.
  2. ^ a b 『寛政重脩諸家譜』による[1]。ほか『尾張群書系図部集』『寛永諸家系図伝』でも享年49とある。逆算すると慶長15年生れ。
  3. ^ a b c 前川 1981, p. 85.
  4. ^ 里見忠義次女。忠義の正室は大久保忠常の娘。慶安5年(1652年)死去。
  5. ^ 実際に許可されたのは寛文4年(1664年)。
  6. ^ a b c 前川 1981, p. 84.
  7. ^ 前川 1981, p. 86-87.
  8. ^ 前川 1981, p. 87.
  9. ^ 前川 1981, p. 88.
  10. ^ 前川 1981, p. 88-89.
  11. ^ a b 高橋 2016, p. 51-55,71-74,93.
  12. ^ 大分県杵築市山香町大字立石にある。
  13. ^ a b 前川 1981, p. 261-262.
  14. ^ 前川 1981, p. 257.
  15. ^ 「豊臣姓 三善姓 良岑姓 飯高姓 高橋姓」『寛永諸家系図伝』。https://www.digital.archives.go.jp/img.pdf/41607082024年1月6日閲覧 
  16. ^ 堀田 1923, p. 170-180.
  17. ^ 小浜景隆子孫
  18. ^ 坪内利定子孫
  19. ^ 前田玄以子孫。
  20. ^ 1815年 - 1865年。1858年安政5年)、44歳の時日米修好通商条約締結の勅許打診を巡って発生した、公家による抗議行動事件である廷臣八十八卿列参事件に関与した。

参考文献

  • 高橋敏『大阪落城異聞:正史と稗史の間から』岩波書店、2016年、51-55,71-74,93頁。ISBN 9784000610926。 
  • 堀田正敦「巻1183・1184」『寛政重脩諸家譜. 第7輯』國民圖書、1923年、170-182頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082721/101 
  • 前川和彦『豊臣家存続の謎 : 秀頼父子は九州で生きていた 戦国の秘史』日本文芸社、1981年。