前田利以

 
凡例
前田利以
時代 江戸時代中期から後期
生誕 明和5年2月26日(1768年4月13日
死没 文政11年5月4日(1828年6月15日
別名 大学(通称)
諡号 宗啓、鶴心斎
戒名 閑松院鶴心宗寿大居士
墓所 群馬県富岡市の長学寺(前田家墓地)
東京都文京区本駒込の吉祥寺
官位 従五位下、大和
幕府 江戸幕府
上野七日市藩
氏族 加賀前田氏
父母 父:前田利道、母:加藤氏(円成院)
養父:前田利見
兄弟 利貞、利精利物、利寧、利以
利行、利幹、元三郎(観光院)
正室:前田利見の養女(前田利尚の娘)
養子:利和
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前田 利以(まえだ としもち)は、上野七日市藩の第9代藩主。七日市藩前田家9代。

生涯

明和5年(1768年)2月26日、加賀大聖寺藩の第5代藩主・前田利道の六男として大聖寺で生まれる。七日市藩の第8代藩主・前田利見の養子となり、天明6年(1786年)に利見が死去したため家督を継ぐ。天明8年(1788年)5月に駿府加番に任じられ、寛政7年(1795年)に従五位下・大和守に叙位・任官する。

文化5年(1808年)11月8日、家督を養子の利和に譲って隠居し、鶴心斎宗啓と名乗る。しかし、隠居後も藩政の実権を握って江戸に別宅を建設し、贅を尽くした生活を送ったために藩財政が逼迫する。これは鶴心斎の江戸詰めの腹心が藩主利和との仲を裂こうという陰謀であったともいわれているが、前田氏の本家である加賀藩からの諫めも聞き入れなかったため、加賀藩との関係が悪化し、慢性的な財政難に苦しんでいた七日市藩は加賀藩からの援助を受けられなくなり、文政4年(1821年)の大旱魃なども重なり、藩財政はさらに逼迫する。また、利和とも不仲になったといわれる。文化9年(1812年)4月、御用人格(150石、御徒士支配)の須藤岡之進は、藩主利和と鶴心斎との軋轢と本家の怒りを解くため、遺書に諌言を書き、夫妻で切腹して果てた。これをきっかけに仲も修復され、本家との関係も多少修復した。

藩や当主らは財政改善・民政にいくつかの施策を打ち出すが、利以の贅沢は死去するまで改まらなかった、と伝わる。文政11年(1828年)5月4日に江戸の北本所にあった下屋敷で死去した。享年61。

系譜

父母

正室

養子

  • 前田利和 ー 前田武宣の三男


加賀梅鉢紋七日市前田家第9代当主(1786年 - 1808年)
宗家

分家・支流

富山藩
大聖寺藩
大聖寺新田藩
  • 利昌 | 断絶
土佐守家
七日市藩
修理家
苗木山家
  • 孝矩
  • 孝始
  • 孝祐
  • 矩貫
  • 矩方
小川町家
  • 孝興
  • 孝教
  • 孝次
  • 孝武
  • 武宣
対馬守家
利武男爵家
加賀梅鉢前田氏七日市藩9代藩主 (1786年 - 1808年)